################/abolition.alml/################ 労働 廃絶 論 ボブ ・ ブラック 人 は 皆 、 労働 を やめる べき で ある 。 労働 こそ が 、 この世 の ほとんど 全て の 不幸 の 源泉 な の で ある 。 この世 の 悪 と 呼べる もの は ほとんど 全て が 、 労働 、 あるいは 労働 を 前提 として 作ら れ た 世界 に 住む こと から 発生 する の だ 。 苦しみ を 終わら せ たけれ ば 、 我々 は 労働 を やめ なけれ ば なら ない 。 それ は 、 「 何 も する な 」 という 意味 で は ない 。 私 は 「 遊び ( play ) 」 < 注 1 > に 基づい た 、 新しい 生き方 を 主張 し て いる の だ 。 言い替えれ ば 、 私 は 「 ばか ( ludic ) 」 革命 < 注 2 > を 主張 し て いる の で ある 。 「 遊び 」 という 言葉 に 、 お祭 ( festivity ) 、 創造 力 ( creativity ) 、 友好 的 宴会 気分 ( conviviality ) 、 共生 ( commensality ) と いっ た 意味 を 私 は こめ て いる 。 できれ ば アート も そこ に 入れ たい 。 そこ に は 、 「 子供 の 遊び 」 より も ずっと 多く の 意味 が ある 。 私 は 、 皆 と 喜び を 分かち 合う こと の 中 に 共同 の 冒険 が ある こと を 主張 し たい 。 自由 な 相互 依存 関係 が お互い を 豊か に する こと を 主張 し たい の で ある 。 「 遊び 」 は 受動 的 で は ない 。 収入 や 仕事 の こと など すっかり 忘れ て 、 まったく 無精 と 怠惰 に なる 時間 を 、 誰 も が 今 より もっと 必要 と し て いる こと は まちがい ない 。 雇用 によって 引き起こさ れる 極度 の 疲労 から 回復 すれ ば 、 誰 だって 行動 し たく なる もの な の だ 。 オブローモフ 主義 < 注 3 > と スタハノフ 主義 < 注 4 > は 、 けっきょ く 悪貨 の 裏表 に すぎ ない の で ある 。 「 ばか ( Ludic ) 」 生活 は 、 今 の 現実 と は 全く 相いれ ない 。 「 現実 」 は まったく タチ が 悪い から だ 。 それ は 、 人生 を 単なる 生存 以上 の もの に しよ う と する 我々 の 活力 を 、 全て 吸い とっ て しまう ブラックホール の よう な もの だ 。 不思議 な こと に 、 不思議 で は ない かも しれ ない が 、 全て の 古い イデオロギー が 保守 的 で ある 。 なぜなら 、 古い イデオロギー は たいてい 「 労働 」 を 信仰 の 対象 に し て いる から だ 。 中 に は 、 マルクス主義 や 大半 の アナキズム の よう に 、 ほか に 信じ られる もの が ない ので 、 一層 頑 なに 労働 を 信仰 する もの さえ ある 。 リベラル 派 は 、 雇用 差別 を 終わら せる べき で ある と 言う 。 私 は 、 雇用 を 終わら せる べき で ある と 言い たい 。 保守 派 は 労働 の 権利 を 主張 する 。 カール ・ マルクス の 義理 の 息子 で 気まぐれ な ポール ・ ラファルグ < 注 5 > に 習っ て 言え ば 、 私 は 怠ける 権利 を 主張 する 。 左翼 は 完全 雇用 が よろしい と 考える 。 シュール レ アリ スト を 真似 て 言う と 、 − 私 は ふざけ て いる わけ で は ない − 私 は 完全 失業 が よろしい と 考える 。 トロツキスト は 永久 革命 を 目指し て 闘う 。 私 は 永久 の ばか騒ぎ ( revelry ) を 目指し て 闘う 。 けれども 、 すべて の イデオローグ が ( 今 そう し て いる よう に ) 労働 を 主張 する に し て も 、 なぜ か 、 彼ら は それ を ハッキリ 言お う と は し ない の で ある 。 それ は 、 彼ら が 他人 を 自分 の ため に 労働 さ せよ う と し て いる という 理由 から だけ で は では ない 。 彼ら は 賃金 、 時間 、 労働 条件 、 搾取 、 生産 性 、 収益 性 について なら とめどなく 話し 続ける し 、 労働 それ 自体 に関して で なけれ ば 、 喜ん で 何でも 話す で あろ う 。 我々 の ため に 思想 を 提供 し て やろ う という これら の 専門 家 連中 が 、 私 たち 自身 の 人生 の 核心 で ある 労働 に関して 結論 が 一致 する こと は まず ない 。 連中 同士 で 、 重箱 の 隅 を つつく コジツケ 議論 を する だけ で ある 。 労働 組合 も 経営 者 も 「 労働 者 は 生きる ため に 人生 の 時間 を 売ら なけれ ば なら ない 」 と いう こと について は 一致 し て いる の だ 。 言い争う の は その 価格 について に すぎ ない 。 マルクス主義 者 は 官僚 が ボス に なる べき で ある と 考える 。 リバータリアン は 実業 家 が ボス に なる べき だ と 考える 。 フェミニスト は 、 ボス が 女性 で あり さえ すれ ば 、 どちら だろ う と お構い なし だ 。 こうした イデオロギー 屋 の 違い は 、 権力 の もたらす 利権 を どう やっ て 分配 する か と いう 点 に つきる こと は 明らか で ある 。 誰 も 権力 自体 に対して は 疑問 を 持た ない し 、 彼ら 全員 が 、 我々 に 労働 を 続け させよ う と 考え て いる こと も 、 同じ よう に また 明白 で あろ う 。 あなた は 私 が ふざけ てる の か 、 真剣 な の か 、 どちら な の か と 思い 迷う かも しれ ない 。 私 は ふざけ て いる と 同時に 、 真剣 で も ある 。 「 ばか ( Ludic ) 」 に なる こと は 、 ばかばかしい こと で は ない の で ある 。 「 遊び 」 が くだらない と は 限ら ない 。 くだらない こと が 常に つまらない わけ で は ない し 、 私 たち は 真剣 に 、 くだらない こと を する べき とき も 少なく ない 。 私 は 、 人生 が ゲーム で ある という 考え が 好き だ 。 それ も 大 博打 の ゲーム だ 。 私 は 「 遊び 」 も 真剣 勝負 で あり たい と 思っ て いる の だ 。 労働 の オルタナティブ は 、 何 も し ない こと で は ない 。 「 ばか ( ludic ) 」 に なる こと は 「 単純 ばか ( quaaludic ) 」 に なる こと で は ない 。 私 が 「 無気力 の 喜び を 大事 に する 」 と 言う とき 、 それ が 他 の 喜び や 娯楽 を 中断 する こと 以上 に 価値 が ある と いう わけ で は ない 。 また 、 私 は 「 レジャー 」 と 呼ば れる 、 時間 制限 の ある 管理 さ れ た 安全弁 を 奨励 し て いる わけ で も ない 。 全く 違う 。 レジャー は 労働 から 回復 する ため に 、 仕事 を 忘れよ う と 熱狂 的 で ある が 無駄 な 努力 を し て 過ごす 時間 で ある 。 多く の 人 は すっかり 疲れ きっ て 休暇 から もどり 、 ゆっくり 休息 が とれる よう に 労働 に 戻る こと を 心待ち に する くらい で ある 。 労働 と レジャー の 主 な 相違 は 、 労働 中 に は 少なくとも 、 疎外 と 消耗 に対して 対価 が 支払わ れる と いう こと だけ な の で ある 。 私 は 言葉 の 定義 ゲーム を する つもり は ない 。 私 が 「 労働 の 廃絶 を 望む 」 と 言う とき は 、 言葉 通り の 意味 な の で ある 。 けれども 、 私 が 使う 言葉 を ごく あたりまえ に 定義 すれ ば 、 私 が 言わ ん と する こと が 一層 ハッキリ する だろ う 。 労働 の 私 の 最小限 の 定義 は 「 強制 さ れ た 仕事 」 すなわち 「 強制 的 な 生産 」 で ある 。 その 両方 の 要素 が 不可欠 で ある 。 労働 は 、 経済 的 ・ 政治 的 な 手段 によって 強制 さ れる 生産 、 人参 と ムチ による 生産 で ある 。 ( 人参 は 他 の 手段 によって は まさに ムチ に なる ) けれども 全て の 創造 活動 が 労働 で ある わけ で は ない 。 労働 は 、 それ 自身 が 目的 に なる こと は 決して ない 。 労働 者 ( もしくは 、 ほか の 誰か で ある こと の 方 が 多い が ) が 労働 から 得る こと の できる 成果 や 生産物 が 目的 な の で ある 。 これ が 労働 が 必然 的 に たどる 道 で ある 。 定義 する こと は 、 それ を 嫌悪 する こと な の で ある が 、 労働 は 、 その 定義 より 一層 悪い の が 常 で ある 。 労働 の 本質 で ある 支配 の 原動力 が 、 労働 時間 を ますます 増やす 傾向 が ある から だ 。 労働 で あふれ て いる 先進 国 社会 で は 、 資本 主義 だろ う と 「 共産 主義 」 だろ う と 産業 社会 なら 全て 、 労働 の その 不快 な 特徴 が 、 必ず 強く 出 て くる の で ある 。 たいてい の 場合 、 労働 は 雇用 、 すなわち 賃金 労働 で ある 。 それ は 、 自分 自身 を 分割払い で 売り渡す こと だ 。 国家 が ほとんど 唯一 の 雇用 者 で あり 、 国民 全て が 従業 員 に なる 「 共産 主義 国 」 において は 、 この こと は 資本 主義 国 より も いっそう 真実 で ある 。 アメリカ 人 の 95 % は 自分 以外 の 誰か ( あるいは 何 か ) の ため に 働い て いる が 、 ソ連 ・ キューバ ・ ユーゴスラビア ・ ニカラグア あるいは それ に 代わっ て 論拠 として 挙げ られる 他 の いかなる 社会 主義 モデル で も 、 それ に当たる 数字 は 100 % に かぎり なく 近い もの で ある 。 メキシコ 、 インド 、 ブラジル 、 トルコ など 、 第 三 世界 の 要塞 に たてこもる 貧農 だけ が 、 国家 へ の 税金 ( 身代金 ) と 寄生 地主 へ の 地代 さえ 払え ば 、 ほったらかし て おい て もらえる の で ある 。 そこ は 、 過去 千 年間 の 伝統 的 な 労働 関係 を 永続 さ せよ う と する 農場 主 たち が 、 ワンサ と 集まる 避難 所 に なっ て いる 。 だが 、 この ひどい 仕打ち さえ 、 我々 に は 良く 見え 始める の だ 。 先進 国 の 産業 労働 者 ( そして オフィス 労働 者 ) は 全て 雇わ れ 人 で あり 、 奴隷 状態 を 確保 する よう な 監視 下 に おか れる の だ から 。 近代 的 な 労働 に は 、 さらに 悪い 含み が ある 。 人々 は ただ 労働 する だけ で は ない 。 「 職業 」 を 持たさ れる の だ 。 一 人 の 人間 は 、 いつも 一つ の 職務 を する 。 ( 基本 的 に は ) たとえ 、 その 職務 が 本質 的 に 興味 を 持てる もの だっ た として も 、 ( そういう 仕事 は どんどん 少なく なっ て いる が ) 縛りつけ られ た 職務 の 閉鎖 的 な 単調 さ は 、 その 人 の 「 ばか 」 ポテンシャル を 消耗 さ せ て しまう の で ある 。 ほどほど の 限ら れ た 時間 内 で あれ ば 、 楽しん で エネルギー を 注ぎ込め る か も し れ ない 「 仕事 」 で も 、 やり方 に 文句 一つ 言え ず 週 40 時間 も し なけれ ば なら ない なら ば 、 それ は 苦役 で しか ない 。 しかも 、 プロジェクト に 何 の 寄与 も し ない 所有 者 の 利益 の ため の 仕事 で ある 。 仕事 を 分担 し たり 、 実際 に し なけれ ば なら ない 人々 に 労働 を 広げ たり する 機会 も 与え られ ない の だ 。 これ が 現実 世界 の 労働 で ある 。 能無し 官僚 が ウロウロ する 世界 、 セクハラ と 差別 の 世界 、 部下 を 搾取 し 罪 を きせる マヌケ な ボス の 世界 で ある 。 あらゆる 合理 的 専門 的 な 基準 を 使っ て 、 部下 は 支配 さ れる の で ある 。 現実 の 資本 主義 の 世界 で は 、 組織 支配 が 危機 に なる と 、 生産 性 や 利益 の 合理 的 な 追求 で さえ 従属 さ せ られる の だ 。 ほとんど の 労働 者 が 仕事 の 上 で 経験 する 屈辱 は 、 「 規律 ( Discipline ) 」 と 呼ば れる さまざま な 侮辱 的 待遇 の 総計 で ある 。 フーコー が この 現象 を ややこしく し て しまっ た が 、 それ は まったく 単純 で ある 。 規律 ( Discipline ) は 、 職場 の 全体 主義 的 管理 の 総体 から 成る − 監視 、 機械 的 な 仕事 、 仕事 の テンポ の 押し付け 、 生産 割当 、 タイム カード による 出 退 管理 など で ある 。