VLBI研究の先達の方々を忘れてはならない

高橋 冨士信

昭48.7〜昭60.4


通信総研は数々の研究テーマをやっているが、VLBIはその中でも基礎研究の色彩の強いも のである。こうした郵政省の枠内では特異なテーマが、現在のような華やかな成果を出す段階 に至るまでには、先達の方々のまさに汗と涙の下積みの時代のあったことを忘れてはならない であろう。こういう下積み時代の話は記録として残しておかないと忘れ去られてしまいがちであ るので、いくらかここに記させて頂く。

 当初のVLBI研究の前身は、30mアンテナや26mアンテナを用いた電波天文観測であった。 いまでこそ野辺山の施設など日本の電波天文も世界的になってきたが、1960年代の日本の 電波天文は欧米から大きく遅れ、まさに当所の2つのアンテナを細々と使って生き延ぴている 状態であった。従って、当所の電波天文研究の先遵である川尻矗大さん、尾鳴武之さん、河野 宣之さん、三木千紘さん達のご苦労は並大抵のものではなかった。国分寺本所では一般的にい って電波天文の評判は良くなかったといわれている。「長期展望が無い」「郵政のやる仕事か」 「顔が天文台を向いているのでは」などの批判の嵐の中で、先達の方々はまさに細々と日本の 電波天文のために、国内の研究者と協力して観測・研究を続けていた。このご尽力が現在の野 辺山ヘつながり、また当所のVLBI研究の発展へつながったのであるという点はアピールし過ぎ ることは無い。

 しかし予算は少なかった.年間総予算数十万円という年もあった。この先違の方々の窮状を支 えたのは、鹿島の他のブロジェクトであった。他の研究室から支所内で相当の予算を流して頂い た。いつかはこの電波天文の技術が鹿島の研究を支える時代が来るかもしれないし、とにかく基 礎研究を続けさせることが鹿島の使命である、との思いが皆さんのどこかにあったのであろう。

 今でも思い出すのは、26mアンテナのコンソールの背面の冷たい床に座りこんで、しばしば エンコーダ用のゲートICの交換や調整をしていたことである。当時の26mアンテナのエンコ ーダはまともに全ビットが動作したことが一度も無く、ほとんど常に5〜6ビットが死んでいた。 交換・調整ソフトによる逃げなどあらゆることが試みられた。プログラム追尾は不調がほとんどで、 従って「まち受け」というドリフトスキャンが確実な手法として重宝がられていた。手動追尾と いった方が良いであろう。この手勤追尾の名手が川尻さんであった。私が新米で入った頃、両手 でAZ‐E1をセットする川尻さんを見て感心した.川尻さんは電波天文グループヘの批判を一手 に引き受けていた。衛星通信用受信機を電波天文用に改良したのは尾嶋さんと三木さんであった。 受信機の開発とともに、天文観測が終わったら衛星通信用にすぐ戻せるょうに工夫するな ど、技術面で大いに支えて頂いたものである。

 アイデアの開拓と人間関係の円滑化の役目を果たしたのは河野さんであった。日米VLBI実 験の実現までに十数年にわたり、河野さんが着想し、実現にこぎつけられたテーマは多かった。 こうした方々のご苦労は、ここおにはとても書ききれない。苦しい状況下でありながら、鹿島と いう明るい研究の雰囲気の中で少しづつ前進し、現在のVLBIプロジェクトヘ導かれたのであ る。昭和53年の年末、VLBIの大蔵予算が初めてついた時、やっと苦節十年の努力が報われ たのであった。

 こうした日本国内における先駆的役割を果たした当所の電波天文ブロジェクトは、現在再ぴ、 34mアンテナという武器を得て、鹿島の地で再飛躍しようとしている。この20年間で電波天文 学は巨大な進歩を遂げている。かつて世捨て人の道楽といわれた宇宙論が、電波天文学の 支援を得て、いまや基礎科学の最前綿に立って、人類の根本的価値観に問いかける学問に 発展してきている。人類が、地球が、銀河系が、そしてこの宇宙そのものが何処からか生まれ、 これからどうなってゆくのか?この問いかけが今世紀最後のそして最大の研究課題としてクロ ーズアップされてきているとともに、来世紀に人類の自然観を根本的に変革する役割を果たす ことになると私は信じる。

 こうした状況下で、鹿島の電波天文研究の果たすぺき役割は大きいと思われる。そして、その 鹿島電波天文の芽をまかれた先達の方々のご努力と忍耐の数々に頭が下がる思いである。 現在を生き抜く我々後輩は、自分に課された使命を少しなりとも遂行してゆくと肝に命ずるべき であろう。