私がろうの子どもたちのための学習塾をはじめてから、今年で15年以上になります。「聞こえない子どもたちが手話を使う」というのは、今では当たり前のことに思えるかもしれませんが、今から数十年前には、手話の使用が日本語習得を妨げるなどの誤った考え方や、聴覚障害者への理解と手話啓発の遅れによる偏見から、ろう学校において手話が禁止されていた時代があったのです。
その後、先輩たちや手話通訳者たちの多大なる苦労と努力のおかげで、手話は少しずつ社会の中に浸透していきました。それは、車の運転や、職業の選択についても同じことが言えます。先輩たちが道を作ってくれたから、今の私たちがいる。でも、今のろう学校の教育の中では、この大切な過去が伝えられていないのではないだろうか、という危惧を、私はずっと抱いていました。
子どもたちの未来のために、きちんと歴史を知ってほしい。それも難しい資料を読み解くのではなく、子どもたちにもわかりやすい形でまとめられないだろうか……そういう思いに端を発したのが、この『ゆずり葉』という映画の企画でした。
実際の製作は困難を極めました。特に大変だったのは脚本作りです。理由はふたつあって、ひとつは、私が映画製作に関して素人同然だったこと。ただしこの部分については、『どんぐりの家』を製作した漫画家・山本おさむ先生の力添えもあり、最終的には何とか形にすることができました。もうひとつは、手話を脚本にするという難しさです。私は手話で物語を考えるのですが、脚本にするときは皆に読んでもらうために日本語で記します。さらに役者は、その日本語をもう一度手話に直して演じるのですが、これがなかなか私が思い描いた通りの表現にならないのです。
手話というのは、手の形と動きだけではなく、顔の表情と一体化して成立するものです。顔の表情は、いわば手話の文法であり、嬉しいという言葉には喜びの表情を、悲しいという言葉では悲しい表情をします。でもそれは、あくまで言語の一部であって、役者が演技で見せる表情とは違うものなのですが、私がダメ出しをしているそれが、演技に対してなのか、言語としての表情についてなのか、その違いをろう者ではないスタッフに理解してもらうまでには、大変時間を要しました。
映画のシーンにも色々な配慮が必要でした。例えば、緊急の際、主人公が「電話の受話器を取る」というシーンを入れたのですが、実際のろう者は決してそんなことはしないので、私の塾の生徒たちからは「おかしいじゃないか」という意見が多く寄せられました。ただし、耳が聞こえないということがどういうことかわからない人が見たときに、何が私たちのバリアになっているのかを明確に伝えるためには、時にそういうシーンが必要な場合もあります。そのようにひとつひとつ、色々な立場の人が見たときにどのように感じるのかを考えながら、シーンを組み立てていった記憶があります。
公開後には、様々な方からたくさんのご意見やご感想をいただきました。中でも忘れられないのが、ある大手企業のトップの方々が集まる場で上映したときのことです。参加者の皆さんほとんどが涙を流して観てくださったのですが、最後に会長から「これで終ってはいけない。これはスタートの前の映画です。本当の意味でのスタートはこれからなんですよ」という言葉をかけていただいたのが、今も印象に残っています。
『ゆずり葉』というタイトルには、若い葉と古い葉がともに生きながら譲って譲られている、先輩たちが築いてきた場所を今度は次の世代が継承していく、そんな思いが込められています。「私たちはいつも譲られ、そして生きて行く」、この精神を忘れずに、これからも映画製作を続けていきたいと思っています。
早憲太郎監督